【 2024年4月25日更新 】ティーツリー お花狩りを準備中です / まもなく開催 / 詳しくはこちら ▼

開聞山麓香料園の歴史

香りと共に80年、香り作り一筋80年。日本における天然香料の農場として、創業時からの歴史を振り返ります

Background

Since
1941

開聞山麓香料園の歴史を振り返ります。

〜 はじまりは1本のローズ・ゼラニュームから 〜

日本における天然香料の農場、その歴史は80年あまりになります。昭和のはじめ、それまで輸入に頼っていた香料が戦争の影響もあり、輸入が難しくなっていました。 このことに危機感を持った曽田香料の創始者・曽田政治氏は、国内での香料製造をするべく様々な香料植物の試験栽培を始めます。

同じ頃に宮﨑巌 (当園創始者) は、珍しい植物を育て増やし、管理する仕事をしていました。その中にバラのような香りをもつ「ローズ・ゼラニューム」がありました。この植物を曽田氏にすすめたところたいへん気に入り、曽田氏はローズ・ゼラニュームの栽培に乗り出しました。

開聞山麓香料園の歴史、インタビューを交えてご紹介いたします。

インタビュー

香料園と歩んだ、浜上さんにインタビュー。

インタビューを読む

ライブラリー

当園に残っている書籍・香料などの歴史。

ライブラリーに進む

インタビュー

「香りを作ってきた町・開聞」

〜 香りと共に80年、香り作り一筋80年 〜

曽田香料創始者・曽田政治氏は、日本国内で天然香料を製造するため、北は北海道、南は鹿児島で香料植物の栽培を始めました。中でもここ鹿児島・開聞岳の麓で育ったローズ・ゼラニュームは、ヨーロッパのそれと比べても遜色のない香りを作り出しました。今回は創業当初から蒸留に携わっていた方に、当時のお話を聞きました。当時を知る唯一の方の貴重なお話です。

話し手 / 浜上 一美 (開聞山麓香料園 元職員)
聞き手 / 宮﨑 利樹 (開聞山麓香料園 副園長)

Background
インタビューの話し手

浜上 一美 さん

はまうえ かずみ
昭和6年2月14日生まれ。旧開聞町川尻 (現:指宿市開聞川尻) 出身。

20歳の時に曽田香料で働き始める。蒸留・ハーブ栽培と、全ての仕事に携わり、曽田香料撤退後も蒸留工場のメンテナンスや農場の管理、後進の指導に尽力。

インタビューの聞き手

宮﨑 利樹

みやざき としき
昭和46年2月2日生まれ。開聞山麓香料園 副園長。

子供の頃からハーブ農場を遊び場とし、ハーブに触れながら育つ。香料園入社当初はレストランを担当し、ハーブを使った料理やスイーツを提供。2010年より工場担当となり、精油抽出をはじめる。

Q1. 開聞山麓香料園は昭和16年、曽田香料鹿児島農場として誕生しました。浜上さんは戦後すぐ入社されたそうですが、当時の様子はどうでしたか。

私は20歳で入社しました。当時は戦後間もない頃で、開聞地区には働き口がなかなか無い中「東京の香料会社」で働けるというのはたいへん恵まれていたと思います。私が入社した頃は、30~40人が働いていました。女性もけっこういました。当時は日当が30円でその頃としてはとても給料がよく、ありがたかったことを覚えています。(浜上)

ローズゼラニウムの収穫作業 / 昭和25年頃

Q2. どのような仕事をしていましたか。

入社当初は香料植物の収穫と畑の草取りをしていました。数年後には蒸留や苗作りもするようになりました。仕事の流れは7時に事務所へ出社したら掃除をして、その日の人数分の飲み水を井戸からくみ上げ、それを持ってそれぞれ担当の農場へ向かいます。畑は第一農場、第二農場、第三農場と三つあり、第一と第三がローズ・ゼラニューム、第二がレモングラスの畑でした。それぞれ10人くらいずつ担当がおりました。農場へはみんなで歩いて行きます。当時はまだ車がありませんでしたから。

蒸留用に収穫したものは、牛車に載せて事務所横にある蒸留工場へ持っていきます。牛車に載りきらないぶんは、人力で運びました。女の人も両腕に抱えて運んでました。そして集まったものをどんどん蒸留していきます。(浜上)

レモングラスの収穫作業 / 昭和30年頃

Background

500㎏の蒸留釜が3基、ボイラーが4基ありました。多い時には、1日5 – 6回蒸留していました。

浜上 一美 (開聞山麓香料園 元職員)

Q3. 当時の蒸留工場の様子を教えてください。

その頃は500㎏の蒸留釜が3基、ボイラーが4基ありました。多い時には、1日5 – 6回蒸留していました。当時のボイラーは、薪を使って沸かしていたのですが、ボイラー専属の人がおりました。その方は、Hさんというのだけど、戦前に満鉄 (注:南満州鉄道株式会社) で蒸気機関車の機関士をしていてボイラーの取扱いに精通していたため、その腕を買われて入社したそうです。

私も入社してしばらくしてからボイラーの手伝いをするようになったのですが、とにかく暑くて暑くてたいへんでした。また、ボイラーの扱いも非常に難しくて、覚えるまでにだいぶ時間がかかりました。と言うのも、このHさんがとても職人気質の方で「見て覚えろ」というタイプの人でしたから、全然教えてくれないんです。

ある時、このHさんが休んだ時があって、だけどもどうしても蒸留をしないといけなくて、先生 (注:農場長の宮崎巌) に「浜上君、君がやってみなさい」と言われ、私が蒸留することになったのですが、ボイラーの蒸気栓の調節がうまくいかず圧力がかかりすぎて、蒸留釜の蓋が吹っ飛んだことがありました。

他の社員も、一回は蒸留釜を吹っ飛ばしてます (笑) 。それくらいボイラーの扱いは難しかった。だから自動のボイラーになった時は、ほんとうに楽になりました。(浜上)

釜に芳樟を詰め込む / 昭和30年頃

芳樟のオイル抽出 / 昭和30年頃

Q4. 当時の蒸留方法、抽出した精油や蒸留水について教えてください。

収穫したものは10kgくらいずつに束ねて工場へ運びます。蒸留釜にハシゴをかけて、そこからどんどん釜の中へ入れ、それを釜の中に入った人が足で踏み込んでいきます。目いっぱい、入るだけ入れて蒸留していました。当時はとにかく量を採ることが大事だったので、あふれんばかりの葉を釜に詰めていました。

それを1日5 – 6回やるわけです。冬はまだしも夏の作業はほんとうに暑くて大変でした。特に蒸留後の葉を釜から出すとき、ものすごい蒸気の熱が工場中に充満します。みんな汗びっしょりになって働いていました。

採った精油はドラム缶に入れて、東京の曽田香料の本社へ輸送しました。蒸留水は指宿のホテルがお風呂に使いたいという事で、タンクに入れて持って行ってました。抽出した後の葉っぱは腐葉土として畑にまいて、無駄なく利用していました。(浜上)

当時は500kg用釜が3基ありました / 昭和30年頃

釜に入り、葉を踏み固めます / 昭和30年頃

Q5.蒸留以外にはどのような仕事をしていましたか。

苗作りが主な仕事でした。特にゼラニュームは精油があまり採れないので、毎年何万本と挿し木をして増やしていました。最初の頃は挿し床を作って苗作りをしていましたが、それだと手間がかかってしまうので、しまいには畑に直接挿し木をしていました。6割くらいはちゃんと根付きました。Nさんという人が苗作りの専門で、教えてもらいながら私も挿し穂を作りました。後々、ゼラニュームは四国へ持っていくことになったのですが、Nさんが指導に行っていました。

芳樟は挿し木と種子で増やしていました。芳樟は面白い特徴があって、芳樟の種子をまいても全部が芳樟に育つわけではないんです。芳樟以外に4つの香りのクスが出てきます。つまり5種類のクスになるんです。ある程度生長したら、葉っぱの香りを嗅いで芳樟だけを残して育てます。この香りの鑑別がたいへんで、100本、200本と嗅いでるとだんだん鼻がマヒして分からなくなってしまいます。そのため必ず3 – 4人で鑑別していました。

芳樟以外の種類は、クス (樟脳の匂い)、サフロール (焦げ臭)、シネオール (塩辛い匂い)、セスキテルペン (甘ったるい匂い = 芳樟とは違う甘さ) で、社員の中で鼻のいい人が選ばれて鑑別していました。香りを忘れないようにと先生が匂いの訓練と称して、様々な葉の匂いを嗅ぐ試験みたいなこともしていました。(浜上)

苗作り / 昭和30年頃

芳樟の畑 / 昭和30年頃

Background

Q6.他にどのような植物を育てていましたか。

レモングラス、ベチバー、パチョリー、レモンユーカリ、カユプテ、後の方ではローズマリーやジャスミン、チュベローズ、紅花です。レモングラス、ベチバー、パチョリーは精油を採っていましたが、他のものは実験的に植えているだけで特に精油は採っていませんでした。

紅花は口紅の染料として化粧品会社へ出していたそうですが、それも合成品ができるようになって需要がなくなり、お茶として売るようになりました。他にもアオモジ、クロモジを実験的に蒸留していましたが、あまり需要がなくすぐ止めてしまいました。(浜上)

芳樟の畑 / 昭和30年頃

パチュリーの収穫作業 / 昭和50年頃

Q7.農場長 (宮﨑巌) はどんな人でしたか。

仕事には厳しい人で、きっちりしていないとよく叱られました。苗の植え付けも畑にロープをまっすぐにはって、それからずれるとよく注意されました。私が誤って蒸留釜を壊した時は、叱られたのは私ではなくボイラーの責任者の人でした。理由は「なぜきちんと教えなかったのか」と言うわけです。厳しかったですが、筋を通される人でした。(浜上)

宮﨑巌夫妻 ローズゼラニューム畑にて / 昭和25年頃

宮﨑巌夫妻 / 昭和30年頃

Q8.曽田香料が撤退することになったとき、どのように感じましたか。

正直、それほど悲壮感みたいなものはなかったです。当時は芳樟が街路樹として利用されたり、パッションフルーツのジュースや紅花のお茶などもよく売れていました。ちょうど指宿が新婚旅行ブームで、開聞岳の自然公園での記念植樹に芳樟を使ってもらったりと、それなりに需要がありました。他にも千葉や神戸、名古屋などにも街路樹用に芳樟を出していたそうです。新婚旅行ブームでは、先生の奥さんが始めた「香料の店」にたくさんの新婚さんがお土産を買いに来ていました。香水がよく売れていたようでした。(浜上)

香料の店 / 昭和40年頃

インタビュー時に園内ショップ前にて

非常にやりがいのある、誇りある仕事でした。それは社員みんなそう思っていました。

蒸留が再開して、不思議な感じもしますがそれ以上に嬉しく思います。

浜上 一美 (開聞山麓香料園 元職員)

Q9.曽田香料 〜 開聞山麓香料園を振り返って。

仕事は重労働でたいへんでしたが、嫌になったことはなかったです。日本だけでなく世界にも輸出されているということで、非常にやりがいのある、誇りある仕事でした。それは社員みんなそう思っていました。

曽田香料から今の香料園になってからもお世話になりましたが、蒸留の仕事がなくなったのは少し寂しい気持ちにもなりました。ですが、香料園になってからは、ハーブを築地の市場へ出したり、たくさんの観光客の人たちが農場を見学に来たりと、それはそれでやりがいのある仕事でした。

また今蒸留が再開して、不思議な感じもしますがそれ以上に嬉しく思います。(浜上)

花と香りの店 / 昭和50年頃

好評開催中の蒸留見学会

最後に 〜 インタビューを終えて 〜

宮﨑 利樹 (開聞山麓香料園 副園長)

私が社会へ出た頃、世の中はイタリアンブームで食材としてのハーブに大変注目が集まっていました。

当園でも築地の市場への出荷がピークに達し、自然と私も「食べるハーブ」に携わるようになりました。当時はまだ「アロマ」という言葉は今みたいに浸透しておらず、まさか私自身がアロマに関わるとは予想だにしていませんでした。

2000年代に入り、「アロマ=香り」に対する急激な波が押し寄せ、それまで眠っていた蒸留工場が再稼働することになりました。しかし、当時の蒸留釜を扱える人は今のスタッフには全くおらず、唯一いらっしゃったのが今回の浜上さんでした。機械の扱い方を一つ一つ丁寧に教えていただき、私もどうにか蒸留できるようになりました。

この仕事は正直に申せば、とても重労働で効率が悪く、ものすごく手間のかかる作業です。ですが、今回改めてお話を聞いて感じたのは、当時の人達がいかに天然香料作りにやりがいを感じ、誇りを持っていたかということでした。自分たちの育てた植物が「香り」になり、それが世界中の人々に喜びや楽しみ、幸せをもたらす1滴になる。そのことが彼らの原動力になっていたのでしょう。

当時の方達の天然香料に対する思いと一緒に、引き継いでいきたいと思います。

ライブラリー

貴重な資料・商品の歴史。開聞山麓香料園で保管する「国内天然香料の記録」です。

Top